語ることで生かされる


 

   なんで、「お父さん死なないで」と言えんかったのか。

 

 主人は大阪市内、私は和歌山県寄りの河内郡(現藤井寺市)の生まれです。 結婚は晩々婚で、私も主人も36歳。あんまり長く私が一人でいるからと、友人に紹介され知り合いました。

 主人は、コンビナートの加熱炉などを設計するエンジニアで、親類の経営する会社に勤めていました。子どもにも2人恵まれましたが、5年ほどして会社が倒産しました。狭い業界ですが、あとで聞けば主人は業界では名を知られたエンジニアで、東京の大手建設会社に請われて私たち家族は上京することになりました。しばらくして、いまの家に落ちつきました。けれども、まもなくある企業から独立した人に誘われて、横浜にある会社に移ります。田舎らしい景色が気に入って選んだ住まいでしたが、横浜まで通うには遠すぎました。土曜日に帰ってきて、日曜の夜には横浜に戻る____、マンションでの単身赴任になりました。もともと出張の多い仕事で、「行ってらっしゃい」「おかえりなさい」と言えたのは、23年間の結婚生活のうち7年あったでしょうか。「あと2年で、定年になったら、ゆっくりできる」とよく言っていまし

た。

 

 主人は、亡くなるまでに2回、行方不明になっています。最初は亡くなる10年前。「ご主人、帰られていますか?」ある日、会社から電話があって、どこにもいないことがわかりました。3日して帰ってきました。「どこ行ってたん?」と聞いても、「ちょっとノイローゼだった」と、そんなことしか言わない。だいたいに喋らない人でした。

 そのあと1年して2回目の行方不明でした。娘が主人からの電話を受けて、「お父さんがお母さんによろしくって。」ピンときて、すぐに会社に電話すると、やっぱり休み。急いでマンションに見に行ってもらうと、扇風機が回ったまま部屋の中は空やったそうです。かけつけると、私と夫の母親、社長当ての3通の遺書がカバンの中から見つかりました。今度も3日して帰ってきましたが、これは危ないと心療内科に2人で行きました。でも、お医者さんも主人も私には何も教えてくれません。会社はしばらく休むことになりました。これは本当によかったと思います。私は次第に安心して、家の中でゴロゴロされるとうっとうしいなと、そんなことも感じるほどになっていました。

 

 3か月して職場に復帰して、さらに8年が経って、最初の行方不明からはかれこれ10年、もう大丈夫と思い始めたころでした。日曜日、娘がアルバイト先に行く車で一緒に出かけたのが、最後でした。「もう休みも終わりか」とため息まじりに言うので、「頼むから休んで」と言ったのですが、聞きません。心配よりむしろ腹がたってきて、「もう、勝手にしい」。

 このときのことは何度も思い出します。あのとき主人の目が何か訴えていたのに、なんで聞いてあげなかったんだろう。そのころは携帯電話をもたせていましたから、電話をして「帰ってきたら」と言えばいいのに、忙しいから悪いと思って言えませんでした。一緒に犬の散歩をしていたときに、「お父さん死なないでねと、なんで言えんかったか・・・・・・。

 

 その三日後の水曜日、2月4日の夜。私の携帯にかかってきた主人からの電話を、たまたま息子がとりました。「お父さん、おかしい」と息子。かけなおすと、「大丈夫、大丈夫」。あのとき、なぜ、すぐにマンションに飛んで行かなかったのか。なんで自分から会社に電話をしなかったのか・・・・・・。なにか「俺のこと、ほっといてくれ」というような気がしていたように思います。やっと夕方になって携帯に電話をしましたが、もう出ませんでした。せめてそのあと会社に電話をしたらよかったのに、次の朝、社長さんからの「いらっしゃいますか」という電話を受けて、やっと会社に向かいました。会社のほうでも、「休むように」といっていただいていたことがわかりました。部下の方には「うつ病で病院に通っている」と言っていたようで、「話を聞いていれば、もっと注意ができた」と言っていただき、なんで会社との連絡を密にしておかなかったかと悔やむことばかりでした。

 

 私は横浜あたりを一生懸命歩き、帰ってきたときのために鍵はかけず電気はつけて、そこら辺まで戻ってきたんじゃないかと急に外に出てみたり、もちろん捜索願も出しました。1週間後の11日。奈良県の大和郡山市の警察から電話がありました。JRの電車に飛び込み、そばの金魚池から引き上げられていました。新婚当時に住んでいた団地の建物が見える場所でした。

 上着のポケットに鍵があり、奈良駅のコインロッカーにバッグがありました。携帯の留守録は仕事の電話ばっかりでした。財布の中に、住所録の裏に書いた遺書がありました。「仕事ができない」。ごめんなさい、すみませんの文字で埋まっていました。「俺をラクにしてくれ」と言われているようでした。

  仕事の大変さを私には言わないまま逝って、あれから3年。

 

 

 

 

  本当は生きていたかったのではないか。止めてほしかったのではないか。

 

 私たちの活動の柱は、残された遺族の支援と、自殺と未遂を防ぐことです。私も夫を自殺で亡くした遺族の一人です。もうこんなつらい思いをする人を増やしたくないと思ったとき、私はなんで主人の死を止められなかったのかと考えたのです。もし私が、自ら死を選ぶ人の行動や残された家族の気持ちを聞いていたり、知ろうとしていたら、きっと違っていただろうと思ったのです。いまほど「うつ」について語られることがなかったにしろ、疲れた主人を見て、もっと調べるべきでした。それを他人事だと思っているから、ある日自分の身にふりかかってきて、何がなんだかわからない・・・・・。あとから思えば主人はサインを出していたのです。だから、いつまでも、つらいつらいと言っているだけでなく、一歩進んで自分の体験を話しておけば、誰かの自殺を防ぐことができるかもしれない。そんなふうに考えるようになりました。

 

 亡くなった当初、「主人は私ら家族を捨てた」と思ったものです。やがて、そうじゃないんだとわかってきました。家族のことを思うから言わなかったですね。だからこそ、本当に死にたかったの?と思うんです。本当は生きたかったんじゃないか。止めてくれる人がいたら止めてほしかったんじゃないか。「死ぬしかない」と追い込まれる前に、誰でもいい、引きとめることができたら、そんな社会であってほしいと思うのです。

 

 主人が亡くなったのは、平成16年の2月でした。享年58.私は59歳、一人娘は21歳、一人息子は19歳でした。いまでは、こんなふうにお話できる私ですが、亡くなったときには葬式も身内でひっそりとあげ、近所の方に本当のことが言えず、「心筋梗塞でした」と言っていました。その様子を見た娘が、「お母さん、なんでウソつくの?そんなウソをついたら、ウソの上塗りで身動きつかなくなるよ」と言ったのです。彼女はと言えば、尋ねる友人に正直に話しています。私は教えられました。

 自ら死を選んだ人は、悪いことをしたのでしょうか。家族のことを考えず自分勝手に死んでいったのでしょうか。そんなことはありません。苦しみ、もがいて、生きようと、やっぱり精一杯生きたと思うんですね。私が主人の最期を隠せば、それは主人の存在を、生きた証さえ消してしまうことになります。

 

 明けても暮れても「ごめんね、ごめんね」と子どもたちと泣いてばかり。人に会うのもいや。外になんて出たくない。運転もいや。役所の手続きなどで、サングラスにマスク、さらに帽子をかぶって、息子が運転してくれる車に乗り込む。そんな私が、娘のひとことから、3か月、4か月を過ぎると、同じ体験をした人たちが語り合うことのできる「分かち合いの会」に出かけるようになりました。とにかく同じ体験をした人たちと、会って話がしたかったのです。このつどいは、自死遺族どうし、遠慮なく泣きながら、安心してなんでも喋ることができます。互いに癒し慰め合う時間を重ねるうちに、私のなかに、こんな思いをしなくてもいいように、一人でも自殺をする人を減らすようなことはできないかという気持ちが生まれてきました。「ライフリンク」の立ち上げに伴うシンポジウムを新聞で知ったのは、そんなころでし

た。

 

 代表の清水康之さんは、元NHKのディレクター。自死遺族の子どもたちの番組を制作したことで、遺族の支援と自殺防止のために行動しなければと、NHKを退社して「ライフリンク」をつくられました。当時まだ、32歳。そのメッセージに私はとても共鳴し、私が体験を話す会に来てもらえないかと清水さんに手紙を書きました。清水さんは私の話を聞き、ちょうど厚生労働大臣に体験を話してくれる人を探していたと、私にその役割を依頼されました。私は遺族ではない人にも自分の体験を語るようになり、そのことで主人が生かされるように感じられ、自分もまた前向きに生きられるようになりました。

 

                ☆「いきいき」2007年9月号のインタビュー記事を再構成しました。


ー「いきいき」のインタビューから16年半ー

 

   自死を語れる世の中に

 

夫の自死から20年経ちました。自殺対策基本法施行から18年。

自殺防止と自死遺族支援が、国及び自治体の法的な責務に!

 

私は自死遺族としてこんな思いをする人を少しでも減らしたいとの思いで活動してきました。

 

全国には大切な人を自死で亡くした人のつどい、分かち合いの会がたくさん開催されています。

しかしながら、まわりに自死しましたと言えてる人はまだまだ少ないように思います。 

 

 

病死、事件、事故とおなじように自死を語れる世の中になってほしいというのが願いです。

 

                                       2024.3.20