かなしみを飼いならしながら

ー生きるのをやめた君へー



              葛藤と絶望の果て命絶つ 自ら殺め人は言い


  しゃれにならない       ★自死の現場の描写があります

 

    玄関灯はしばらく前から壊れていた。薄暗闇の中見当をつけて鍵を差し込みながら、今が幸せなのかもしれないと思った。やがて子供達は独立して家を出て行くだろう。母親として幸せな時間は長くはない、そう思っていた。

 いつものように、玄関のたたきに揃えられた黒い布製のスニーカーで息子の在宅を確認すると、仕事帰りにスーパーで買った魚を冷蔵庫に入れるために台所へ向かった。珍しく息子が昼食をとった気配がないことを一瞬不審に思ったが、朝の様子を思い起こし、食欲がないのだろうと思った。カフェ・オ・レを飲みながら小腹を満たし、夕食の支度にとりかかった。疲れていた。手早く支度を済ませたかった。

 夕食の支度を終えると、いつものように階段の下から息子の名を呼んだ。

 「たけ―。」

 返事はなかった。

 「たけ―。」

 もう一度繰り返したが、やはり返事はなかった。階段を上がり、踊り場で向きを変えながら思った。

 『しゃれにならない』

 

 息子の部屋のドアをノックして開けると、暗闇の中に、パソコンとテレビのモニターが浮き上がって見えた。

 『なんだ。やっぱり家にいたんじゃない。』

 しかし、ベッドには息子の姿はなかった。                     

 息子は、クローゼットの中にいた。息子の首にしっかりと巻かれたネクタイは、ほどこうとしてもほどけなかった。

『どうしたら?』

努めて冷静になろうとした。

『救急?警察?』

部屋の灯りもつけずに階下に降り、救急車を呼んだ。

 

 

 

          遺書   ★自死の現場の描写があります

 

 電話で指示された通りネクタイを切るための鋏を手にして暗い部屋に戻り蛍光灯をつけた時、息子の両腕に死斑があるのがわかった。息子の体を下ろそうとネクタイを切ると、息子の唇から息が漏れた。が、僅かに生まれた期待を、硬くなっていた息子の体が打ち砕いた。

 

 救急車が到着し救急隊員が処置を始め、いつの間にか刑事も到着した。

 救急隊員に救命処置の停止の確認を求められ承諾した後、刑事が室内を捜索している間、私は息子の傍らに座り込んで息子の頭を撫で続けていた。『この人達は涙も流さず息子の頭を撫でている私をどう思うのだろう。』と思いながら。

 刑事の一人に促され居間に降りて事情を聞かれた時も、一刻も早く息子の傍に戻りたいと思っていた。

 

「遺書です。」

 息子の部屋に戻ると、刑事に2枚の紙を渡された。

 救急車を待つ間、傍らの学習机の上に、折りたたまれた紙片が置かれていることに気がついてはいた。手渡されたその紙片に目を通した時、無駄のない文章に胸を打たれた。息子は紛れもなく私の子だ。もし私が遺書を書くようなことになったら、同じ様な文章を書くだろう。

  

 死にます 申し訳ありません

 ここまで育ててもらい感謝しています

 誰のせいでもなくすべて自分のせいです

 葬式等 お金のかかることはすべてしなくていいです

 24年間 本当にありがとうございました

 

遺書は、ルーズリーフに横書きで、一字一字丁寧にボールペンで書かれていた。そして、もう一枚には四つ折りにした跡が残されており、

 

 遺書

 死ぬことにしました

 

 それだけが書かれていた。あの子はいつ、どんな思いで、この二枚の遺書を書いたのだろう。二枚の遺書が残されている意味、短い文章の行間に込められた書くことのできなかった思い。

「この遺書は、母にあてたものだと思うよ。」

娘は遺書を見た時、そう言った。

『ありがとう』

父や母を見送ったときに聞く機会に恵まれなかったその言葉を、息子は最後に遺して亡くなった。

母の日の五日前のことだった。

 

 

 

    傍にいたい  ★一部遺体の描写があります。

 

遺書を渡された後、息子は検視のために警察署に運ばれ、戻るのは早くても翌朝になると聞かされた。残された時間を息子の傍に出来る限りいたいという願いは、叶えられそうになかった。

息子を警察署に運んでもらうために葬儀社を手配し、単身赴任中の夫に息子の突然の死を報告した後、葬儀社の車が迎えに来るまでを息子の傍らで過ごした。

 

息子が運ばれた後、仕事から帰宅した娘と一緒に居間の隣の和室を片付け、息子が戻るための準備をした。

 「お兄さんは楽になったと思うよ。」

娘はそう言って続けた。

 「お兄さんの部屋で音がするたびに、怖かった。」

 

 思いのほか早く、午前二時ごろ警察から遺体が戻ると電話があった。監察医が深夜の検視に応じてくれたということだった。

 『息子が戻ってくる』

 

しばらくして息子と共に到着した葬儀社の社員は、用意した布団に息子を横たえ枕飾りを手際よく済ませた。その社員に、息子の傍を片時も離れたくないから身内だけの葬儀にしたいと伝え、通夜と告別式の簡単な打ち合わせを終えた。

 

葬儀社の社員が引き揚げた後、息子の布団の傍らに並んで横になった。息子の横顔は、微笑んでいるようだった。その息子の横顔をいつまでも見ていたかった。

 

「笑っているみたいでしょ。」

同僚の勧めで、最終の高速バスを利用して単身赴任先から戻ってきた夫に、同意を求めた。   その途端、涙が溢れた。そして止まらなくなった。

障子の外はもう明るくなっていた。

 

 

葬儀社のお迎えが到着し、小雨の中、白いシートに包まれた息子が自宅をでるのを見送った。葬儀の支度のために式場に入るのを遠慮して欲しいと言われた4時間ほどが、とても長く感じられた。

 

納棺を済ませ家族だけで通夜を終えた後、用意された部屋で少し横になろうとした。

しかし眠ることはできず、息子の顔を見ようと柩の傍に戻ると、思わず息子の額に手が伸びた。体温を感じられなくなってしまったことは、さほど気にはならなかった。それよりも、形ある息子に触れていたかった。少しでも横にならなければと思いながらも眠ることはできず、明け方まで、幾度となく布団と柩の傍らを往復した。

 

そうやって柩の中の息子の額を撫でていた時、突然、息子の眉が崩れた。息子の眉には眉墨が引かれていたらしく、それに指が触れてしまったのだった。ぼけた墨を直そうと、何度も指を動かしたが、直すことはできなかった。

その時、息子の体は亡骸となってしまったこと、そして、少しずつ朽ちていくのだということを悟った。どんなに願っても、このままずっと傍にいることはできない。

 

 

 

   死ぬことにした訳?

 

息子が亡くなる三週間ほど前のことだった。

しているはずと思っていた就職活動をしていない様子に気づき問いただすと、息子は黙り込んでしまった。沈黙がしばらく続いた。息子の気持ちをどうしたら聞き出せるのかと思いをめぐらし、その言葉を思いついた。

「何がしたいの?」

息子はこちらをじっと見たまま答えようとしなかった。しかたなく、もう一度繰り返した。

「何がしたいの?」

すると、息子は黙ってベッドから立ち上がると階段を降り、玄関を出ていった。

玄関脇の階段に腰掛けながら、何故か息子がもう戻らないかもしれない、そう思った。

『しゃれにならない』

が直ぐに、『お金もなく荷物も持たず出かけたのだから』そう自分に言い聞かせた。

ほどなく何事もなかったかのように息子は戻ってきた。

 

ゴールデンウィークに入り、めずらしく連休がとれた私は、息子と顔を合わせることが多くなった。息子が仕事を辞めて一年が過ぎていた。それは猶予として与える約束をしていた一年だった。

昼食の後うたた寝をしようと窓際のソファーに横たわると、レースのカーテン越しに五月の青空が拡がっていた。心地良かった。その空を見上げているうちに、ふと思いついた言葉を息子に言いたくなった。

「自分のためには働くことができなくても、誰かのためなら働けると思うよ。」

それは私の実感から出た言葉でもあった。夫の会社の倒産によって外で働くことを余儀なくされた時、長く専業主婦として仕事の厳しさから遠ざかっていた私の重い腰を上げさせたのは、『子どものために働こう』という思いだったからだ。

 「家にはもうお金がないの?」

 24歳にもなって、まるで幼子のように心細そうにそう尋ねる息子に戸惑った。

 

 「あんたたちの世話にならないよう、老後のお金を残しておかなければならないのよ。」

そして続けた。

「親はいつまでも元気でいるとは限らないの。子供を一人前にするのが親の仕事なんだよ。」

息子は連休の合間をぬって、しばらく乗っていなかった原チャリのナンバーを登録し直し、自賠責を払い込むために出かけた。

 

「何もする気になれなかった。」

亡くなる前の晩、息子はそう打ち明けた。

何かに追い立てられるように、夕食のサラダ、生姜焼き、ご飯と、順番に『ばっかり食べ』でかき込み終えた時のことだった。二人だけの食卓で、息子の横顔がそこにあった。自分が代表を務める団体の総会を一週間後に控えた私は、込み入った話をする気になれなかった。

しばらく沈黙が続いた。

 「あなたの妹は、初めてのお給料で震災の被災者に寄付をしたんだよ。あなたは被災地に行って、体を使ってボランティアでもしたら。」

 息子は何も言わずに2階に上がった。息子の部屋からは、前の晩もそうだった様に、夜遅くまで椅子をカタカタさせる音が続いた。

 

 翌日は、五月の初旬とは思えないほど、ムシムシとした日だった。家を出る前に息子の顔を見たいと思い、2階に上がった。

「何もする気になれないのは病気かもしれないから、少し様子をみてみよう。」

と言い、

「震災のボランティアを募集しているから、働く気になれないのだったら行ってみるのもいいかもよ。」

ボランティア募集の記事が載せられた朝刊をベッドの上に置きながら、そう続けた。

こちらに向けた息子の目には、もう何も映っていなかった。今から思えば。

 

 

息子は、何故自ら命を絶たなければならなかったのだろうか。その訳がわかれば、息子が生き返ってくるように思われた。亡くなった訳をさがす日々が始まった。

 

 

 

   怒り

 

 息子を喪った私は、自分に起きていることに混乱した。

 それまで私が抱いていたイメージでは、息子を自死で亡くした母親はショックのあまり寝込んでしまい起き上がることもできないはずなのに、私は何かをしていないと落ち着かず、今までになく働き者になった。

  そして、拳を打ちつけたくなるほどの怒りに襲われたのだった。

 テレビを見ていると、大きな液晶の画面にリモコンを投げつけたくなったり、スーパーの店内で悪ふざけしている若い男の子達を見かけると、『どうしてこんな子たちが生きていて、あんなにやさしかった息子が死ななければならなかったのだろう。』と怒りがこみあげて来るのだった。車を運転すればアクセルを思い切り踏み込みたくなり、必死にこらえなければならなかった。

自分自身が怖くなった私は、ネットで検索しているうちに、とある県の精神保健福祉センターの三つ折りリーフレットを見つけた。

 大切な人を自死で亡くした遺族に『起こりやすい心身の反応』に、『じっとしていられない』、『周囲の人々に怒りを感じる』という文字を見つけただけなのに、私は、私に起きていることが特別なことではないことを知り、ほっとして涙が止まらなくなった。

 

そして、そのリーフレットで『自死』という言葉を知った。

 

 

 

    仲間(ピア)を求めて

 

 同じ立場の人同士が支え合いながら共通の困難を乗り越えるためのセルフヘルプグループの存在を知ったのは、専業主婦を経験した後、福祉の仕事をするために勉強をした時のことだった。

 

 息子を喪った私を襲った経験したことのない激しい怒り、強い衝動。

私は混乱し、このままではおかしくなってしまうのではないかと怖くなった。

それでも、精神科の門をたたく気にはなれなかった。ヘルパーをしていて、『うつ』と診断された利用者の方が、服薬をしてもなかなか好転しないのを目の当たりにしていたからだ。

そして、福祉の勉強をしていた時に知った、『同じ境遇の仲間(ピア)と気持ちを共有し支え合う』、ピア・サポートに救いを求めた。

ネットを検索し、『自死遺族のつどい』の存在を探し当て最寄りの会場の日程を調べ、それからは『その日まで』と思いながら、一日一日をやり過ごした。

 

10日後に息子の四十九日を控えたその日、22歳の娘に付き添われ会場に向かった。

人目があるにもかかわらず、移動の電車のなかでも涙を止めることはできなかった。

 

会場に着いた私は、その会場の『わかち合い』が行政の主催だから安心だと選んだにもかかわらず、わかち合いの輪の中で、『この中に自死遺族でない人は何人いるのだろう』と思っていた。わかち合いは遺族だけでしたかったのだ。

私は、おそらくそのほうが楽だろうという予感から、息子の自死を隠すことはしなかった。その予感は、私がヘルパーをしていたことと無縁ではなかったような気がする。介護の仕事を始めた頃には、痴呆症と言われていた認知症、その利用者の方の家族を見ていて、もし私の両親が認知症になったら『隠すのはやめよう。』、そして、『周囲に理解してもらって助けてもらおう。』、そう思っていた。その経験が私の背中を押してくれたように思う。

 そして、自死であることをオープンにしても、幸いなことにあからさまな偏見にさらされることはなかった。ただ息子を亡くすまで、私は『家族の愛情さえあれば、人は最後の一線を越えることはない。』そう思う母親だった。そしてその思いに、息子を喪ってから苦しめられることになった。私はその思いゆえに、誰にでもは心を開けなくなっていたのだ。それは例えて言えば、『服を着ている人の前で自分だけ裸になれない』、そんな感覚だろうか。そう、今では、ひとことで言えば『恥じていた』と認めることができる。

  ただ、わかち合いの輪の中に入った若い行政の職員は、控えめで、私の言葉にただ耳を傾けてくれた。そして、話しながらも涙を止めることのできない私の膝に、誰かがティッシュの箱を置いてくれた。

 

 

 

   あのとき

 

 息子が亡くなって八カ月が過ぎた月命日の明け方、夢をみた。息子は、少し緊張した面持ちでそこにいた。それは、亡くなる二年前に証明書用にとった写真と同じ顔だった。

 「後悔してる?」

尋ねると、息子の瞳がみるみる潤んだ。思わず刈り上げた息子の頭を抱きしめながら、

 『ああ、あのときこうして泣かせてあげていればよかった。』、そう思っていた。

 『あのとき』は二度あった。一度目は、確か亡くなる三週間ほど前、そして二度目は亡くなる前の晩。二度とも息子は横顔を私に向けていた。息子が、薄い皮一枚で、かろうじて自分を支えていることは痛いほど伝わってきた。

「つらいの?」そう尋ねていれば、息子は涙を流したのかもしれない。でも、その一言が言えなかった。いや、言うべきではないと思ったのだった。二十四歳の男。わずか一年だけだが、一度は社会に出て働いた大人の男だ。本人が耐えているならそのままにしておこう。耐えられなくなったら、そのときには息子から話してくれるはずだと思っていた。  

あの時―卒論の指導をしてくれた助教につらく当たられた時―のように。

けれども息子はつらさを訴えることなく、自ら命を絶った。私は、父の涙も夫の涙も見たことがなかった。どこかで、大人の男はつらくても涙を流さないで耐えるものと思いこんでいたのかもしれない。

 『ああ、あのとき。』

 あのとき私はどうすればよかったのだろう。

 

 

 

           友からの手紙

 

 息子を亡くして2年近く経ったころ、ようやく友からの手紙の封を切ることができた。

 それは、息子を亡くした翌年の年明けに届いた淡い花柄の封書だった。

 小学生の時に「親友になろうね。」と子どもらしい誓いをたてながらも、節目節目に連絡を取る以外は疎遠になっていた友からのその手紙の封を、しばらくは開ける気になれなかったのだ。

 

新しい年が明けて一週間が過ぎましたが、いかがお過ごしですか

昨年喪中のお葉書をいただき、本当に驚きました

確か昨年の一月にお会いして、お互いの息子のことを話したりしたのですよね 

五月というのはそれからすぐのことですね

同じくらいの年の息子を持つ母親としては、

子どもに先立たれた悲しみやつらさを思うと、何と声をかけていいのかわかりません

いろいろな思いがわきあがってくる毎日だったことでしょう

世の中が正月気分のこの時期、どんな思いで過ごされているか案じています 

気持の整理はなかなかつかないことと思います 

長い年月がかかりますよね

今度はいつお会いできるでしょう 

しばらく先でもかまいません、もし会う元気が出てきたらいつでも声をかけてください 

私は何もできませんが、待っています

この冬は寒い日が続きますね 

どうか体調に気をつけてお過ごしください。

 

 ようやく封を切ることのできた手紙。涙があふれた。

『まだ会えない。』会ってしまったら壊れてしまいそうな自分を感じ、そう思った。

ただ待ってくれている友がいることが嬉しかった。

 

 

 

かなしみを飼いならしながら

 

二ヶ月に一度わかち合いに通うことが、私の支えになっていた

自分に向き合うのが苦しくてわかち合いの会場近くの公園で躊躇しているうちに遅刻してしまったり、わかち合いで発言した言葉を反芻しているうちに反対方向の電車に乗ってしまったり、そんなことを繰り返しながら。

 

わかち合いに参加したからといって急に何かが変わることはなかったが、お互いを傷つけ合うことが怖くて家族に胸の内を明かすことのできなかった私にとって、『わかち合い』は、唯一自分の気持ちを語ることのできる場だった。

 

 『遺されたもののかなしみ』は時には怒りとなり牙をむく。正気を失うかもしれないという怖さを感じさせたあの『怒り』だ。

 それは、大切に育てた息子をある日突然に自死で喪うという、『理不尽さ』に対する怒りだ。

人に向けることのできない、自分に向けるしかない怒りだ。

その怒りに対する恐れが、わかち合いを求めた。そこでは、息子を自死させてしまった『引け目』を感じることなく心を開き、負の感情を口にすることができた。

そして、子供を亡くした遺族に、鏡に映ったかのような自分をみつけたり、立場の違う遺族の言葉で、自分の家族の思いに気がついたりした。

 

そして3年余りが過ぎたある日、散らかった部屋を自分の周りだけ見ながら掃除していったら、いつの間にか部屋全体がすっかり片づいているのに気づいた時のように、自分の思いが整理されているのを感じた。

そしてその頃には、不思議な現象、深夜床に就いた時に例えは家がきしむようなほんのちょっとした物音にも目の奥でフラッシュが光る、そんな現象もほとんどなくなった

 

それでも、息子を喪ったかなしみは一生消えるはずもなく、油断せず、鋭く牙をむくことのないように飼いならしていくほかないのだろう。だからこそ、幸せを感じることを許そうと思った。息子がそれを望んでいると信じて。いつの日にか、息子が迎えに来てくれる時がきたら、「母は、天寿を全うしたよ。」と報告するために。

 

 

 

 

    後悔

 

 五月の連休明けの土曜日、京浜急行は行楽帰りの家族連れで混んでいた。息子が亡くなって三年が過ぎた命日、私は親子連れに混じって外の景色を眺めていた。  

一途な恋をしていた高校三年の頃、彼に会いに行くために乗った赤い色の車両。その車窓から、流れていく景色を何度眺めたことだろう。高校を中退した彼は、当時そんな言葉すらなかった『ニート』だったにもかかわらず、ひかれていく自分を抑えることができなかった。  

あの頃は、平凡で穏やかな結婚生活など予想だにしなかった。そして、思いもよらず穏やかな生活と子育ての喜びを手にし、その生活にすっかり馴染んでしまい何の疑いも持たなくなったころ、あっけなくその幸せを失ってしまった。その幸せに、いくばくかの不安を感じることはあっても、それは思いもよらないできごとだった。

 

 娘がダウンロードしてくれた『いきものがかり』のアルバムをイヤホンで聴きながら、先ほど聴いたばかりの精神科の医師の講演会の内容を反芻しているうちに、私は、私の犯した間違いを確信していった。

 息子の挫折と喪失の痛手は、思ったよりも深いものだったのだ。そしてそれは、息子が仕事から解放されてすぐには意識されることはなく、遅れてやってきた。おそらく半年ほど。  

そのことに、あのとき気づくべきだった。

そして亡くなる三週間ほど前、様子がおかしいと思ったあのとき、「もしかして、死にたいと思ってる?」と訊けばよかったのだ。  

深い痛手を負った時、そのような気持ちになることは不思議なことではないと安心させてあげればよかった。そして、時間をかけて少しずつ自分の気持ちを整理していけば、やがて道が開けて来ると言ってあげればよかった。

 昔、そんな製薬会社のコマーシャルがあったように、『うつ』は心の『かぜ』のように誰でもがかかる病気なのかもしれない。

  だとしても、つらい症状を和らげる薬はあってもかぜに効く薬がないように、それだけでうつが治る薬もおそらくない。かぜを治すために、ゆっくり休養し、栄養を採り、体力が回復するのを待つように、うつ状態にあるときも、自分のなかに力が満ちてくるまで、人の助けを借り、物の助けを借り、ゆっくりと時を待つしかないと言ってあげればよかったのだ。

今なら、それができる。息子を失った後のうつ状態から、なんとか抜け出せそうとしている今なら。

息子を亡くす前にそれができなかったことが、悔しい。

 飼いならしたはずのかなしみが急に襲い、 涙が溢れそうになった。ここで泣くわけにはいかない。ここで涙を流したら、『変なおばさん』だと思われる。奥歯を強く噛みしめてふと目の前を見ると、車内広告の女優が微笑んでいた。

 

 

 

 

    想定外

 

 新幹線を降りて小田急線に乗り換えた時には、もう九時近かった。日曜の夜の人もまばらな車内で、読みかけていた本を開き、久しぶりに会うことのできた学生時代の友人との会話を思った。会話のなかに、デリケートにぎこちなく自死があった。

 

息子を亡くして三年、私を苦しめてきたもの、自分自身にあった偏見。

息子を亡くすまで私は、『自殺者を出す家庭は、家族関係に問題がある。』と思っていた。

単身赴任が六年にわたりほとんど息子と会話することのできなかった父親、息子を支配するようになることが怖くて自分の生きがいを求めているうちに多忙になりすぎてしまった母親、自分のなかの得体のしれない感情を最後まで口にすることのなかった息子。みんなが、少しずつ間違っていた。

そして、私たちは息子の問題を解決する時間を永遠に失ってしまった。父親はせめてメールでも交わしていればと後悔し、母親は息子を見守るゆとりを無くしていたことを悔いた。

私たちは皆、愚かだった。自分たちに近づいてくる危機をおぼろげに感じながらも、自死を想定外のこととしていた。           

そんな私たちは、特別な家族だったのだろうか。

 

車窓に広がる暗闇にふと目をやった時、社内アナウンスが聞こえた。息子の元職場の最寄りの駅を知らせる声だった。突然涙が溢れそうになり慌てて本に目をやると、活字がみるみるかすんできた。奥歯をきつく噛みしめたにも拘わらず、涙は頬を伝った。しばらくそのままで涙を乾かし、それから顎の端に溜まった涙をぬぐった。そして、他の乗客が気づいていないことを確認し、読みかけていた『なだいなだ』の本の続きを読み始めた。『とりあえず今日を生き、明日もまた今日を生きよう』

 

 

 

       聞かせてほしい

 

   息子を喪ってから、不思議な現象に戸惑った。

深夜布団にもぐりこんで眠りにつくために深く呼吸をしていると、家が軋むような僅かな物音にも、目の奥でフラッシュが光る、不快ではないが、それまで経験したことのない現象が続いた。

二年ほどでその現象は治まり、やがて、物音に『びくっ』と体が反応するようになった。

やがて四年が経とうとする頃には、物音がすると、上半身に『ざわざわ』と広がるものを感じるようになった。

 体は正直だ。私は、深く傷ついていた。自分で意識しているよりも深く。

傷は、生きている限り決して癒えることはなく、きっかけがあれば開いてしまい赤い血の流れる傷なのだろう。油断してはいけない。

私がこんなにも傷つくことを知っていたら、息子は、もう少しだけでも踏みとどまってくれたのではないか、そう思う。

けれど、たとえその行為に傷ついたとしても、息子と生きた時間、それは私にとってかけがえのない時間だ。

子育てに煮詰まることも度々あったけれど、今となってはどの思い出もいとおしい。

息子と娘に挟まれて二人が寝付くまで絵本を読んでいた時間、あれほどしあわせな時間を私は知らない。

息子はぬくもりを教え、たくさんの思い出を残してくれた。

息子のいなかった人生なんて考えられない。そして、あ・な・た以外の息子なんて。

   自死という結末を迎えてしまっても、それは変わりない。

 

そう思うのは母だけ?

ねえ、たけ、君はどう思う。 

 

最後の瞬間に何を思ったの?

 

 

 

      義母の看取り

 

息子の自死を知らせた時、義母はたった一言「優しい子だったのにねえ。」と言った。

 

 折りたたみ式の簡易ベッドでの浅い眠りから目覚めて病室の窓から外を眺めると、わずかに広がった緑のなかに、動く小動物を見つけた。リスのようだった。

 ベッドに横たわる義母は、二カ月ほど前、療養型の病院に看取りのために転院したのだった。

 

 息子を亡くして二年余り経った頃、義母が転んで手首を骨折、入院をして手術をした。

それがきっかけで重度の膝関節症であることがわかり、少しずつ歩行が困難になっていった一人暮らしの義母の通い介護が始まった。

 

手首の骨折から四年あまりが経った頃、義母は脳出血で倒れ、救急で運ばれた病院で命をとりとめたものの、右半身不随と意識障害のため口から食べることは不可能だと診断された。薬を入れるために鼻から入れていた管で、回復の可能性を探るために栄養を入れてみたが、回復の見込みはないとのことだった。

 ヘルパーをしていた私は、義母が元気なうちから延命治療について折に触れて話題にしていた。

 義母は、経管栄養で何年も生き続けた遠方に住む義姉を一度だけ見舞っていて、

「あんな風にしてまで生きていたくない」。

と言った。そして、胃ろうはしないということを、二人で確認していた。

 救急病院から転院先を探すように言われても、医療的な処置を望まない患者を引き受けてくれる病院を探すのは難航した。思うようにいかず悩む私を見かねて、病院のソーシャルワーカーが、痰の吸引だけで看取りをしてくれる病院を紹介してくれた。

 転院前、今の状況とこれからを説明して義母の同意を得ようとした。他の親族には理解できないようだったが、ヘルパーとしていろいろな利用者さんに接してきた私は、義母が倒れて三週間ほどたった頃からかろうじて意思の疎通ができるようになっていた。

 言葉を発することの難しかった義母と私のコミュニケーションの唯一の方法は、私の言っていることを理解した時の義母の笑顔だった。ただ、それは面会時間の一時間の間に、一度か二度訪れるだけだったが。

 同意をとろうとしても義母が無表情だったので、思い切って、

「このまま生きていたいの?」

と聞いてみた。

 すると義母は微笑んだ。

 どこかでそんな反応を予期していたような気もした。私は慌てて、

「ずっとこのままなんだよ」

と言い、義母の反応を見た。

 義母はまた無表情になってしまった。それは私の言葉を理解できたからなのか、できなかったからなのか謎のままだった。

 

病院を変わると、すぐにはずしてもらう予定だった経鼻経管を使用可能なぎりぎりまでそのままにしてもらい、はずすと同時に、夫と交替で『その時』が訪れるまで義母の傍についていることにしたのだった。

 義母が倒れてから亡くなるまでの三カ月あまり、ずっと『死』について考えていた。

『尊厳死』のタイミングを決められるのは誰なのか?

『尊厳死』と『安楽死』と『自死』はどこがどう違うのか?

 

考えれば考えるほど、答えのでない無限ループにはまっていくのを感じていた。

 

 

 

 鈴木家の嘘  ★自死の現場の描写があります

 

 夕刊の映画評で『鈴木家の嘘』を見つけたときから、見ようかやめようか、見るとしたら一人でみようか誰かと見ようかと迷った。

 私は自死の第一発見者で救急隊が来るまでの処置を一人でした。その間、感情を遮断していたという自覚があった。検死が終わって息子が戻ってきてからも、単身赴任先から急遽戻った夫の顔を見るまで、涙を流した記憶がない。ただ、時とともに体の緊張がほぐれつつあるのと同時に、その時の映像を思い出そうとすると、震えが止まらなくなるような感覚が襲ってきそうで怖くなったのだ。

 遺族の仲間と一緒に見に行こうかと思い始めた時、すでに見た仲間から「しんどい」という感想を聞き、覚悟を決めて一人で向き合うことにした。同じように遺族となってしまった、そして立場の違う監督が家族の自死とどう向き合い、何を感じ、何を思ったか知りたいと思った。

 

映画館に向かうために降りたのは、奇しくも、33年前不妊治療から出産まで通った病院の最寄りの駅だった。

かつて横浜の有数の繁華街だった商店街の端にあるその映画館は、映画マニアが利用する映画館らしく、上映前には百二十ほどの席の三分の一ぐらいが埋まった。

 私は一番後方の中央の席に座り、シートにもたれ腕組みをして見た。

 冒頭、鈴木家の息子がカーテンを開けたシーンで、忘れかけていた記憶がよみがえった。

 そうあのとき、暗闇の中でテレビとパソコンのモニターだけが青く光り、なぜかカーテンは開いたままだった。

 私は映画の中の母親と同様にお気楽に夕食を作り、息子を階段下から呼んだのだった。 

映画と違うのは、私は異様なぐらい冷静だった。もうだめだと思いつつも119番に電話し、対応を確認し、指示された通り鋏を持って現場に行き、処置をし、救急隊を待った。

 そして、もう無理だと知らされても冷静なままだった。『かなしみが大きすぎると涙はでない』といつかどこかで聞いたことがあったけど、こんな感じなんだと思っていた。

 

 映画の中で父親がソープランドでトラブルを起こす姿は、息子が亡くなった訳を知りたい、私の知らない息子を知りたいと必死になっていた当時の私を思い起させた。そして、割れた窓ガラスを透明なシートで塞いだ車に乗り続ける父親の姿は、ある気づきをもたらした。

 息子の部屋を放置してあるのは、息子の部屋に入るのが怖いという理由だけではなく、息子を追い詰めた自分の罪を忘れないようにしたいという思いと、鈴木家の妹がわかち合いの席でまくしたてたように、勝手に逝った息子を許せないという怒りが、複雑に絡み合っているのではないかと。

 自分を罰するのはもうやめよう。息子の自死を許そう。

    そうだ、息子の部屋のシャッターを開けて風を入れよう。息子が気持ちよく帰ってこられるように。

 

 翌日、息子の部屋のシャッターを開け、風を入れ、かびた寝具を処分した。

 床に転がったゴミ袋を開けると、きちんと分別されたプラごみの中に折りたたまれたルーズリーフが2枚入っていた。遺書の下書きだった。あの簡潔な遺書は、一行書いては思い直し、何度も書き直したのだということが改めてわかった。

 息子を亡くして八年近くが経っていた。

 

 

 

   運命の歯車

 

夏の初め、横浜の老舗の喫茶店で遺族の先輩と一緒に軽い昼食をとり、講演会場に向かった。

 息子を亡くした直後のわかち合いで知り合ったその先輩が、『自殺対策基礎研修』で、遺族の立場から語るのを聞かせてもらうためだった。八年あまりの付き合いになるその先輩から亡くしたご主人の話、遺族としての思いを折に触れて聞いてはいたが、自死に至る経緯を順序だてて伺うのは初めてだった。

 聴いているうちにジグソーパズルのピースが少しずつはまり始め、最後のピースがはまったその時に、運命の歯車が自死に向かって動き出すのをはっきりと感じた。

 初めは乗り越えられると思うような小さなピースも、だんだん集まってくると追い込まれていく。『自死』に至る要因はひとつではなく、幾重にも重なっていること。そして、最後のピースがはまってしまうと止めるのが難しくなっていくことを。

 自分の息子に関しては、自責の念もあり確信することができなかったのだが、息子の運命の歯車も、『自死』に向かって嚙み合ってしまったのだと実感した。

 

 何かが少し違っていたら・・・。

 例えば東日本大震災がなかったら。テレビではどのチャンネルも朝から晩まで繰り返し津波の映像を映し出し、ネットでも繰り返される『がんばろう日本』コール。世の中が一丸となって一つの目的に向かっている時、それができなかった息子は、何を思っていたのだろう。

 そして、あの日の五月というのに不快になるほどむしむしとした天気。

 何よりも、私にもう少し余裕があったら。自分たちで立ち上げた家事介護の事業に、ヘルパーとしてのやりがいと組織運営の限界を感じていた私は、家族よりも大切なものはないということを見失っていた。

 

 

 何かが少し違っていたら、いつか思い出話になっていたのかもしれない。

 

 

 

   転籍 

 

 義母が亡くなり、空き家となった夫の実家に買い手がついたのを機に、私たちの本籍を移すことにした。

 借家から結婚生活を始めた私たちは、夫が次男だったため義父母との同居は考えていなかったが、終の棲家が決まるまではと夫の実家に籍を置いていた。

 当初予定になかった私の両親との同居が決まった時にも、同居を理由に転籍をすることにためらいがありそのままにしていた。

 区役所で、「死亡や婚姻等で転籍前に除籍になっている方は、転籍後の戸籍に載りません。」という注意書きを読み、一通持ち帰ろうと謄本を二通とった。

 転籍の窓口で順番を待つ間、それぞれに謄本を手にしてソファーに腰掛けた。 

 二枚目にある除籍となった息子の欄を確認すると涙があふれそうになり、思わず横に座った夫の様子を盗み見てしまった。

そこには、同じように息子の欄をじっと見つめる夫の横顔があった。

 転籍した戸籍には息子はもういない。

 息子がいなかったことになってしまうのはいやだ。

 「お子さんは?」と聞かれたら、「娘が一人と亡くなった息子が・・・」、「ご病気で?」と聞かれたら、「自死で・・・」、「???」と相手が戸惑ったら、「自ら・・・」と答えよう。

 そして、今まで避けてきた息子の話を夫ともっともっとしよう。

 帰り道、車の助手席でそんなことを考えていた。

 

 

 

   うつ向かないで

 

 私は眠りにこだわるほうではないので、不眠に苦しむことはなかった。眠くなるまで待って横になるとすぐに眠りに落ち、判で押したように四時間半で目が覚めるとカフェ・オ・レをいれ、四十九日までは息子の骨箱を抱えてまた眠くなるのを待つ生活を送った。

中途覚醒は長く続き、朝まで眠れるようになったのは息子を亡くして七年が過ぎる頃だった。

週に一回か二回だったが六時間まとめて眠れるようになった私は、体調の回復を実感し、近くの障害者施設で散歩同行のボランティアをしようと思い立った。

 

 

 ボランティアの初日、一緒に散歩した施設の若い職員に、「お子さんは?」

と聞かれた。

 「娘と亡くなった息子がひとり。」

と答えると、

 「ご病気で。」

と聞かれ、

 「自死で。」

と答えると彼女は、

 「そうだったんですね。」

と言い黙った。

 ほっとした。彼女が『自死』という言葉を知っていてくれたことに。

 息子の自死を隠さず生きようと思った私だったが、それは思っていたよりもしんどいことだった。

 息子を亡くして二年が過ぎた頃、『もう自殺だって平気でいえる』と思ったが、すぐに思い知らされた。罪を思わせるその言葉を使ってもなお、息子の人生を肯定できる強さは私にはないと。

 

 ボランティアを始めて二年余り。

 日常生活は元に戻り、体調はほぼ回復した。

 それでも、息子の自死をためらいなく語ることはできそうもなかった。

 ただ、息子が自ら命を絶ったとしても、その時まで彼が葛藤しながらも懸命に生きたこと。そして、その生涯に幸せを感じた瞬間が何度もあったに違いないことを私は知っている。

 だから、『うつ向かないで、顔をあげて生きて行きたい。』そう思った。心の傷が開かないように気をつけながら。

 

 

 

    息子の友達

 

 息子の月命日の墓参りで、墓前に缶コーヒーが供えられているのを見つけた。おそらく、

息子の友人のひとりが供えてくれたのだろう。

十年という歳月が流れても墓参りをしてくれる友人がいたというのに・・・。

 

 息子は特に社交的というわけでもなかったが、幼い時から常に親しい友人がいて、その多くが我が家を出入りしていた。

 息子の葬儀をごく身内だけで済ませた私は、息子の携帯から親しい友人のアドレスを捜し出

し、メールで手短に息子が亡くなった経緯を知らせた。

 二十代半ばの彼らには衝撃的な出来事だったことだろう。それぞれのグループで連れ立って納骨前の息子に会いに来てくれた。

 彼らが語る私の知らない息子の話は、息子が確かに生きていたのだということを実感させ、どれほど私を慰めてくれたことだろう。それは夫も同様だったと思う。

 二年余り前、そのひとりが非正規から正社員に採用されたと聞いた時、息子のことのようにうれしくて涙があふれた。それからしばらくして、別のひとりが定職に就き結婚したと聞いた時も。

 リーマンショック前後に就職活動をしなければならなかった彼等は、理不尽な思いもしたことだろう。どうかこれからも生き抜いていってほしい。息子もおそらくそう願っている。

 ほら、日暮が鳴いている。

 

 

 

         息子の遺した宿題

 

「生きているただそれだけでいいのだ。」と息子になぜ言ってやれなかったのだろう?

 息子を亡くしてもなお、そう言い切れないことが私の胸を重くしていた。

 

 その答えが降ってきたのは、上野千鶴子さんの『最後の授業』をテレビで見ている時だった。

「ケアとは、ケアするひととされるひととのあいだが圧倒的に非対称な関係のもとに行われる相互行為です。」と上野さんは言った。

ケアの実務は確かにその通りかもしれない。ただ人としてのかかわりの中で、ケアしているつもりがいつの間にかケアされている、多くの利用者さんとの間でそんな経験を度々した。それこそがケアの醍醐味だった。そんなことを思い出したときに気がついた。

「生きているただそれだけでいいのだ。」と私は私に言えなかったのだと。

 

『働かざる者食うべからず』

 それは、専業主婦だった母がよく口にした言葉だった。

 そして、私にとっても呪いの言葉だったのかもしれない。

 

 男女共学の教育を受け特に目的もなく大学に進学した私は、うかつにも就活の季節になるまで、四年制の女子学生の置かれている境遇について知らなかった。

 昨日まで同等だと思っていた男子の求人票に比べ、女子の求人票はけた違いに少なく、世間では短大卒の女子学生の需要が多いのだということを思い知らされた。

 やっと見つけた男女同賃金の流通系の会社に勤めてはみたものの、前例の少ない学卒女子二期目の新入社員の扱いに戸惑う会社と現場の人間関係に疲れてしまった。

 やがて私は、3年半で一期後輩の夫との結婚のため仕事を辞め、専業主婦になった。

 

そして、子供たちが小学校に入学し子育てが一段落した私は、以前から食の安全のために加入していた生協の活動に居場所を見つけた。

やがてその生協が福祉のまちづくりに手を広げていくのと同時に、ヘルパー資格を取り、生協の支援を受けて、当時アンペイドワークと言われた家事介護事業を有償ボランティアとして提供する事業所を仲間と立ち上げ、通信教育で福祉の勉強をする一方で、介護保険事業に参入していく。

その間両親の看取りも経験した。

 生協活動では、専業主婦では経験することのできなかった様々な経験をし、家事介護事業所の代表になると、ヘルパーを天職だと思うと同時に、代表として組織を運営することに限界を感じるようになった。それでもなんとか踏ん張ろうとしていた。

 そんなころだった。息子が亡くなったのは。

 

 「生きているただそれだけでいい。」

それは、私が言って欲しい言葉だったのだ。

そう気づいた時、息子からの宿題に答えがでた安堵感で心がほぐれていくのを感じた。

 

これからは言える。哲学的、宗教的な裏付けなんていらない。

 

たけ、生まれてきてくれてありがとう。      

そして、あなたの欲した言葉をかけてあげられなくてごめんなさい。

 

 

 


   生きているただそれだけでいいのだと 言ってやれずに訣れた朝